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入龍宮不可思議境界録
<2011. 04. 20>

 谷口雅春先生著『新版 叡智の断片』には、「入龍宮不可思議境界録」として次のように書かれています。(抜粋)

   * * * * *

 時間空間の中に生命が生れて来るのではなくして、生命が時間空間をつくるのである。時間空間は吾が心の中にある。時間空間は生命の掌中にあるのである。
     ○
 現象の世界は、うつりかわる世界、変遷の世界である。映画のように、光と影との交錯せる世界である。
     ○
 現象刻々流転。されど流転せざる者あり。「今・即久遠」なり。
「今」を把握すれば人の病い癒え、国の病い癒ゆ。
     ○
「今」を把握せざる者、天壌無窮を永久に知ることなし。
「今」を把握せざる者、「不死の生命」を永久に知ることなし。
     ○
「敗戦前、真の日本なし。敗戦後、真の日本なし。現象裡、真の日本なし」前後際断の「今即久遠」にのみ真の日本あり。真の日本を知らざる者は日本人に非ず。

   * * * * *

「今・即久遠」とは、時間・空間未だ発せざる元のところ、現象展開以前の理念(実相)の世界である。それは「一」であり「天地(あめつち)の初発(はじめ)」であり「中(みなか)」であって、すべてはこの「中(みなか)」の展開であります。その本源の「みなか」に帰るのが「中心帰一」であります。

「すべての善のうち最も大なるものは、中心に帰一する心をもつことである。」とお教え頂いています(『光明道中記』p.36)。

 これが生長の家の御教えの根本であると思います。その根本から、

「宗教とは『個』が『永遠』と『無窮』とにつながる意識なり。具体的『永遠』とは『皇位』なり、具体的無限とは日本国なり。具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。」(同書p.19)

 という生き方が出てまいります。

 すべては、「中(みなか)」から咲き出でた花であります。
 自分というものは、なかったのです。
 すべてが自分だったのです。
 すべての花は、わがいのちが咲き出でた花でありました。
 感動します。ああ、天地万物は神のいのちの展開であり、わがいのちの展開である!

「中(みなか)」において、すべては「一」であり、対立するものは何もないのであります。対立するものがないことを「絶対」というのであります。悪を認めない、「悪は無い」というのが「絶対善」であります。
「相対」の世界は本来ナイ。無い世界をありと認めて、敵を作って戦えば、動・反動の法則により、業は流転し続けて浄まることはないのであります。この宇宙浄化のためには、住吉大神に出御いただいて禊ぎ払いを行い、「悪は無い」「ただ善のみ」とする如意宝珠(にょいほうじゅ)──潮干珠(しおひるのたま)・潮満珠(しおみつのたま)をもってすべてを浄め、「善一元」「光一元」の天照大御神をお迎えしなければなりません。私たちは住吉大神の全心全霊なのであります。

 谷口雅春先生は、

「住吉大神宇宙を浄め給う。宇宙浄めの天の使として生まれたるが○○○○なり。神は私に使命を授け給う。今日何を為すべきかを教え給う。その教えられたる使命を実践するのが私の生き甲斐である」

 として「○○○○」のところに自分の名前を入れて毎朝祈るがよいと教えられました。私は実践します。

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コメント

合掌 素晴らしい『光明道中記』を思い出させていただきました。ありがとうございます。素晴らしいブログを読ませていただいております。感謝 再合掌

投稿: 石田 盛喜代 | 2011年5月 1日 (日) 04時58分

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