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「自分はナイ。空っぽである」
<2011. 04. 16>

 私は2008年2月に、「信仰雑感」と題して東京第一教区の「地方講師会だより」に、次のような文章を書いていました。

    * * * * *

 私は2008年版日時計日記の冒頭「今年の目標」というところに、

「自分はないのである。空っぽなのである。
 自分を空にしたとき
 すべてはわが内にあり、
 すべての中にわれはあるのである。
 私はすべてである。
 すべてが私である。
 常にこのことを忘れず
 日々感動とよろこびの日を送る。
 私は光である。」

 と書きました。
 そして毎朝佛前に坐し、まずこう念じています。

「ご先祖様のいのちは神様のいのち。ご先祖様の心は神様の心。ご先祖様のからだは神様のからだ。
 ご先祖様のいのちは私のいのち。ご先祖様の心は私の心。ご先祖様のからだは私のからだ。
 ご先祖様からいただいた命でした。ご先祖様からいただいた体でした。
 私は無かったのです。私は空っぽだったのです。本来の空っぽに帰って、自由自在のいのちを生き、感動の生活をさせていただきます。空っぽの中にすべてがあり、私はすべてだったのです。
 私の中にすべてがあり、すべての中に私はあり、私は光でした。
 そしてすべては神様でした。完全円満な神様以外には何もないのでした。

 妻よ、あなたのいのちは神様のいのち。あなたの心は神様の心。あなたのからだは神様のからだ。あなたのいのちは私のいのち。あなたの心は私の心。あなたのからだは私のからだ。

 娘よ、あなたのいのちは神様のいのち。あなたの心は神様の心。あなたのからだは神様のからだ。あなたのいのちは私のいのち。あなたの心は私の心。あなたのからだは私のからだ。
(今私は妻・娘と三人で暮らしていますので。)

〈誌友会などに出かける日は、講師・役員・誌友会出席者皆様などについて、《あなたのいのちは神様のいのち。あなたの心は神様の心。あなたのからだは神様のからだ。あなたのいのちは私のいのち。あなたの心は私の心。あなたのからだは私のからだ》と念じます。〉

 すべては神様でした。すべては私でした。ますますよくなる。ますます素晴らしいことが出てくる。今日も感動の一日を送らせていただきます。ありがとうございます。」

 そう念じてから、招神歌をとなえ神想観して、一日の出発をします。
「あなたは私です」と念じて他を讃嘆するとき、それは自分を讃嘆することなのでした。

 感動と喜びにひたりながらこの喜びを広めて行きたいというのが、私の念願です。

    * * * * *

 去年のブログにも引用させていただきましたが、谷口雅春先生著『叡智の断片』には、次のようにありました。

    * * * * *

『道は絶対である。絶対には対立がない。道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。一切の対立がなくなることである。一切の対立がなくなるから一切に和解し、一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂(じゃく)である。これが茶道の清寂であり、そのまま清まる日本の道である。対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。それを大和の道と云う。構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である、全即一であり、一即全である。
 本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。』
(谷口雅春先生著『叡智の断片』より)

    * * * * *

 と。
 このことを忘れず、常にこのように生きたい、というのが私の理想、願いです。

 現象界では谷口雅宣総裁に反対する運動を展開している人たちもあるようで、その激しさにちょっとびっくりしましたが、その人たちも本来、生長の家が大好きな人たちであり、「神は完全にして神の造りたまいしすべての物も完全なり」ですから、実相は円満大調和している、反対の人たちも実は総裁を尊敬し、中心帰一して、神様が始められた生長の家の運動は大調和のうちに伸展しているのである──と、私は命をこめて祈ってまいります。

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コメント

ブログを拝見させていただきました。真に生長の家人として人生を進まれていることに、すばらしいと思います。約50年位前、ほんの一時期、青年会の活動をご一緒させていただいたことが有りましたが、その後、私は長年サラリーマン人生を過ごしておりました。その間、谷口雅春先生のご著書など拝読させていただいておりました。生長の家人としては、誠に恥ずかしい限りですが、これからも少しでも向上して行きたいと思っております。(今年で、古希を迎えます)
これからも、岡さんのブログを楽しみにしております。

投稿: 日高 學 | 2011年5月 3日 (火) 09時49分

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