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「生長の家」は沈没しかかっている


 生長の家創始者谷口雅春先生は、昭和60年5月28日付けで最期のご署名のある、《谷口雅春著作集 第4巻》 『實相と現象』 の 「はしがき」 に、次のように書かれている。(谷口雅春先生は同年6月17日御昇天)


≪ 『神 真理を告げ給う』 の冒頭には、次の如くに述べられている。

 「“わたし” は今まで多くの教祖や哲人を通して人生の意義を説いて来た。

 君たちのうちには熱心に真理を求めて色々の書物を読み、色々の学者の説を読み、それに基いて思索をし、既に人生の意義を知ることが出来た人もある。しかしそんな人は非常に稀であって、大抵は、自分の偏見や既成概念の中を迂路チョロしていて、悟ったつもりで實際は悟っていないか、真理なんて求めても到底得られるものではないのだという絶望感で、“聖なる求め” を放棄している人もある。

 そのような人たちに “私” は、今ふたたび真理を知らせてあげたい愛念によって、今此処に谷口雅春を通して真理を説こうと思うのである。」

 更に次の節には、

 「……それらの宗教教祖や碩学
(せきがく)や大哲の中に “わたし” は宿って、人々を導くために “わたし” は書いたり、説いたりして来たのである。真理は人間の肉体から生まれて来るものでも、人間の脳細胞から生産されて来るものでもなく、實にそれらの人々に宿っている “わたし” がそれを説いているのである……。」

 「しかし “本当の教祖” というべき “真理の啓示者” は “實相世界” にある “神” のみなのである。イエス・キリストも 『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』 といっているし、谷口雅春も、“自分は教祖ではない。實相世界に生長の家の本部はある” といっているのである。」

 この “わたし” は勿論、言うまでもなく神である。

 このような文章――神の言に接する毎に、私は畏れ平伏
(ひれふ)すのである。そして図り知れない神のはからい、摂理、お導きに、谷口は十二分にお応えし得たであろうか、この九十余年の生を以て些(いささ)かの悔いることなくお応えし得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。そして谷口に賜った神々の大いなる恩寵に、唯々感謝合掌、悦びが、悦びの波紋が見渡す限り拡がる様を、心眼に拝するのである。

 本著作集も第四巻となり、いよいよ佳境に入った感がある。…(略)…もとより谷口の脳髄知、谷口の力量で構えて説いたものではない。いずれもその折々に最も相応しい神々の指導助言の賜である。万般の奇瑞が続出するのも、故なしとしない。

 諸賢が本著に親しまれることにより、“聖なる求め” を放棄することなく、日に日に高きを望み、深きに入りて真理を体得せられんことを、神に代り切に切に望むものである。
    昭和六十年五月二十八日
          著者
           谷口雅春
              識す≫

          ○

 『新版 真理』 第1巻 第3章の冒頭には、次のように書かれてありました。


≪ 第三章 心の舵・心の鑿(のみ)

     慣れる尊さ 恐ろしさ

 或る船長の話です。

 その船長は航海に慣れてしまいました。

 慣れると云うことは尊いことであると同時に、恐ろしいことなのです。ものは慣れなければ充分出来ません。慣れると云うことが尊いのはそのためです。しかしあまりに慣れてしまうと、人は、その行っていることが何でもなくなり、何の有難さも感じなくなることがあるので恐ろしいのです。

 その船長も航海と云うものが何でもなくなってしまったのです。船は水の上を進むのが当り前であって、放っておいても、波を乗り越え、港へ着くものだと思えて来たのです。

 その船が進むためには、火夫
(かまをたく人)も要れば、運転士も要る、舵手も要れば、甲板洗いの下級船員も要ると云うことを忘れてしまったのです。その船のために、その船長のために一緒に働いてくれている多くのものの、すべての力があるので船が進み得るのだと云うことに感謝する心と云うものがなくなってしまったのです。

 吾々にでも此の船長のようなことがよくあるものです。吾々はこの世界に空気があるのを当り前だと思っています。有難いなどと思ったことの無い人が多いのです。有難いと思わないどころか、空気のあることに気のつかない人さえ多いのです。それは空気があることに慣れてしまったからです。慣れてしまうと云うことは尊いことであると同時に恐ろしいことだと云うのはこのことです。

 此の船長が或る日、甲板へ出て見ますと、それは可成り波の高い日でありましたが、一人の男が一所懸命、汗みどろになって、車輪のような丸い把手を右へ廻し、左へ廻ししているのです。

 「あれは誰じゃ、何を一体しているのじゃ。」

 と船長は側にいる一人の水夫に尋ねました。

 「あれは舵手です。船の舵をとっているのです。」

 とその水夫は答えました。

 船長は不思議そうな顔をしました。

 「あの男は一日中あんなところへ坐って、舵をとっているのか。」

 と又たずねました。

 「そうです、船長。」

 と水夫は答えました。

 「そうか、そんなことは要らぬことじゃ。船は進むのが当り前じゃ。そんなに一日中舵なんかとっている必要はない。」

 こう云って、船長は舵手の働きを止めさせてしまいました。

 しばらくそれでも船は惰力で進みました。船長は舵手を始めとして多勢の船員たちと娯楽室で遊びにふけっていました。

 すると時ならぬ烈しい響きと共に地震のような震動が起ったかと思うと、その娯楽室の床が、壁が、甚だしく傾きました。其れは船が暗礁に乗り上げて、船底に大きな孔があいた響きだったのです。

 たちまち船に水が入って来て、その船は沈んでしまいました。

 可哀相に! 沈んだのはその船の船長ばかりではない、舵手も、その他の船員たちも、すべて沈んで海底の藻屑となってしまったのです。

     船でも会社でも舵を取って呉れる人に感謝せよ

 何故、この船は暗礁に乗り上げたのでしょうか。それは、船長が 「船は航海するのが当り前だ」 と思って、舵手がいてくれる有難さを感じなくなったからです。……≫

          ○

 ――私は、思います。

 このまま行けば、「生長の家」 という現象界の船は

≪ ……しばらくそれでも船は惰力で進みました。船長は舵手を始めとして多勢の船員たちと娯楽室で遊びにふけっていました。

 すると時ならぬ烈しい響きと共に地震のような震動が起ったかと思うと、その娯楽室の床が、壁が、甚だしく傾きました。其れは船が暗礁に乗り上げて、船底に大きな孔があいた響きだったのです。たちまち船に水が入って来て、その船は沈んでしまいました。

 可哀相に! 沈んだのはその船の船長ばかりではない、舵手も、その他の船員たちも、すべて沈んで海底の藻屑となってしまったのです。≫

 ――となるにちがいない。いや、すでに沈没しかかっているのではないか、と。  (2018.5.6)

生長の家信徒は、各員皆船長である


 このまま行けば、「生長の家」 という現象界の船は、

≪ ……時ならぬ烈しい響きと共に地震のような震動が起ったかと思うと、その娯楽室の床が、壁が、甚だしく傾きました。其れは船が暗礁に乗り上げて、船底に大きな孔があいた響きだったのです。たちまち船に水が入って来て、その船は沈んでしまいました。

 可哀相に! 沈んだのはその船の船長ばかりではない、舵手も、その他の船員たちも、すべて沈んで海底の藻屑となってしまったのです。≫


    (『新版 真理』 第1巻 p.30)


 ――となってしまうにちがいない。


 ――というその船の 「船長」 とは、生長の家総裁という他人のことではない。

 縁あってこの教えに触れた生長の家信徒には、各員に皆、その船長なるものが宿っているのである。

 人間は皆、「運命」 という船の船長なのである。

 それが、「天上天下唯我独尊」 ということであり、「人間はみな神の独り子だ」 ということである。


 私が船長であり、あなたが船長であるのである。


 時あたかも 「生長の家」 という船が、現象界においては、大きく二つに割れて、沈没しかかっていると見えているのである。

 それは誰の責任でもない、私の責任であり、あなたの責任であるのである。


 しかし、「現象はない」 のである。悪はないのである。不完全はないのである。


 「 “本当の教祖” というべき “真理の啓示者” は “実相世界” にある “神” のみなのである。イエス・キリストも 『師というべき者は、唯ひとり天の父のみである』 といっているし、谷口雅春も、“自分は教祖ではない。実相世界に生長の家の本部はある” といっているのである。」

 と 『神 真理を告げ給う』 (p.13) に書かれている実相の生長の家に、分裂はないのである。悪は無いのである。敵はないのである。

  
「神はすべてにして、
   すべて一体
(ひとつ)なれば、
   よろずもの皆共通
(ひとつ)
   ちから是を生かせり。

   天地
(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
   唯一つの神にませば、
   天地はただ一つに、
   いと妙に調和満つる。

   吾れ坐す妙々実相世界
   吾身は金剛実相神の子
   よろず円満大調和
   光明遍照実相世界。」


 と 「実相を観ずる歌」 にある通りなのである。

 その実相、本当のすがたを、現実世界に顕わすのが、神の子人間の使命なのである。


 分裂して沈没しかかった船、そしてその乗員すべてを、救うことができるのは、何者であるか?

 それは、生長の家総裁――谷口雅春の孫であるということだけで、

 
「自分の偏見や既成概念の中を迂路チョロしていて、悟ったつもりで実際は悟っていない」
   (『神 真理を告げ給う』 p.11)

 にも拘わらず生長の家総裁という地位につき、創始者谷口雅春が神の啓示を受けて説いた万教帰一・日本の実相の真理をくらませ、多くの幹部・信徒を路頭に迷わせて今日の昏迷を招いた、愚かな谷口雅宣には不可能なことである。

 かと言って、中島省治、前原幸博とか安東巌などという、怨念と闘争心をもってこの世の浄化ができると空想妄想している、愚かな集団が 「生長の家本流」 と僭称しあがいているのも、妄動の極みである。

 いわんや、岡正章という何の実力も実績も無く、ただ馬齢を重ね、犬の遠吠えのように偉そうなことをネット上に書いているだけの愚かな狂人に、何ができるというのか。


 ――人間には、不可能なことである。

 分裂して沈没しかかった船、そしてその乗員すべてを、救うことができるのは、人間ではない。それが出来るのは、ただ神のみである。


 諦めましょう。ギブアップ、GIVE UP しましょう。無駄な抵抗はやめて、神に、無条件降伏しましょう。 そして、笑いましょう! 喜びましょう!  (2018.5.14)

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